Miércoles, 28 de Marzo de 2012
沖縄、大阪、宮崎歩き記 (2)
Escrito por つづく   

「人の移動と21世紀のグローバル社会 ―日系紙記者の見た移民社会―」

同じ14日、琉球大学移民研究班の主催で、やはり、くもじ市民劇場ホールでフォーラム「人の移動と21世紀のグローバル社会 ―日系紙記者の見た移民社会― 」 が開かれた。
参加したのは、司会の前原信一(前沖縄テレビ・ディレクター)、ブラジルの深沢正雪(ニッケイ新聞編集長)、バネーサ知念(UTINA’ PRESS)、ハワイの仲嶺和男(PASIFIC PRESS),アルゼンチンから崎原朝一(らぷらた報知)。
海外における日系社会、あるいは、沖縄系社会の現状報告、そのあと、今後の沖縄、および、日本と海外日系・沖縄系社会とのつながりについて、それぞれの現地社会と世界的な広がりに絡み合わせながら討論することが狙いだった。
それぞれの国の報告に興味深かった点があり、それは次の通りである。

▼    「ブラジル日系社会の百年の推移と沖縄系の果たした役割」(深沢正雪・ニッケイ新聞編集長)
ブラジル日本移民は1908年に開始したが、1926年から1935年までの10年間に、戦前戦後を通した全移民25万人の過半数である13万2千人が集中して渡航しており、「ブラジル移民の団塊世代(文化的思想的に共通している世代)」を形成している。
評論家の大宅壮一は「明治大正時代が見たければ、ブラジルの観光旅行すればよい」、という名言を残した。なぜ「明治の日本」がブラジル日系社会に残っているのか。「移民の団塊世代」の気質が「明治の日本」そのものだからです。団塊世代は当時30歳前後の家長に率いられ、家長は日露戦争前後に人格形成した世代であり、それが子ども、孫に受け継がれて、のちのブラジル移民史に大きな影響を与えたわけです。
移民の精神には常に「二つの方向の民族性」が強く働き、それが時代の情勢によって揺れ動く。一つは「祖国向き」、もう一つは「移住先向き」です。一般的に、早く来た人の中でその土地の人間と競って何かを成し遂げられるレベルになった人は、その土地のことをよく理解している。そして同化傾向を強め、子どもにその土地でもっと成功してもらうために、高学歴を与えようとする。
ですから、1926年に全県人会に先駆けて本格的な県人会組織を整えた「球陽会」(沖縄県人会の前身)の存在は非常に大きい。初代会長になった翁長助成は早い段階から永住志向を持ち、長男・英雄に対して「ブラジル人になれ」と教育し、戦前にサンパウロ総合大学法学部を卒業させ、日系初のジャーナリストにした。戦後、勝ち負け抗争(勝ち組負け組問題)が起きて日本移民への一般社会への評価が最も下がった時、日本移民の地位と権利を守るべく先頭に立ち、一般社会への切り込み隊長として戦ったのは、最も虐げられていたはずの日系社会の少数集団である沖縄系二世(翁長英雄や山城ジョーゼ)と、隠れキリシタンの末裔を含む日系キリスト教徒(田村幸重、平田進)でした。
(現在)沖縄系は日系社会において大きな存在感を占めるようになり、その結果、2008年の(ブラジル移民)百年祭の時、日系御三家(日系大手三団体)のうち、2団体の会長(上原幸啓・ブラジル文化協会長、与儀昭雄・県人会連合会会長)が沖縄系だったのは象徴的だった。
百年祭で何が起きたのか、それには、「魔の1990年代」を理解することが必要。1994年の南伯産業組合、コチア産業組合の相次ぐ解体、1998年の南米銀行の身売りという、日系社会のインフラ(基盤構造)ともいえる組織がしたからである。
「移民の団塊世代」が1980年代に80歳、1990年代には90歳となり、「旧秩序」が消滅し、本当の意味の次の世代が始まったのは1990年代だった。
百年間の移動を追うと、「明治の日本」に行き着く先はパラナ州で、「逆回りの西進」を描いている。百周年前後から(パラナ州にある)ロンドリーナではグルップ・サンセイ、クリチーバでも琉球国祭り太鼓が誕生、若葉太鼓などの若手芸能集団が力をつけ、今年はパラナ勢がYOSAKOIソーラン全伯大会の3位まで独占した。グルッポ・サンセイ代表は城間ミチさんで,沖縄系が中心となって「マツリダンス」という新しい日系文化を生み出した。沖縄系を軸とした日系全体のエスニック(民族調)イメージの再編が起きていると、私は見ています。
▼    「ブラジルの沖縄社会」(知念バネッサ・ウチナープレス)
150万人もの日本人やその子孫は、もう6代目になっている。このうち沖縄のコミュニティは全体のたった10%であり、それは約15万人。沖縄県系人は最初の移民が、ウチナーンチュ精神である、団結し、助け合う心を子孫に伝え、集団として傑出している。
ブラジル沖縄県人会は各地に広がる44の支部を持ち、県人組織の中でも大きなものの一つとなっている。
注目に値する事実は、沖縄の文化に対する新しい世代(三世、四世、五世)の関心で、ここにはウチナーンチュの子孫ではない人達も含まれている。豊かな文化は言葉や国籍の壁をものともしないことを示し、この意味で非常に興味深く思うことは、沖縄人のアイデンティティーは沖縄にルーツがあるということ以上の何かであるという点。

エイサー大会
エイサー大会は奥武山運動場で行なわれたが、観衆の多くが地元沖縄の人達で、各地域でエイサー・コンクールが盛んであることを反映しているようだ。屋慶名青年会、今帰仁村湧川青年会など東京新宿のエイサーにも参加しているとか。一人の酔っ払った年寄りが青年たちのエイサーに紛れ込む。担当者がエイサーの外に連れ出すが、また戻る。酔っていても仕草は若者たちと合っているので、昔取った杵柄というところ。
隣の補助運動場のテントの中で、材料を無料で提供して楽器パーランクーの作り方を教えていた。参加して1個仕上げる。隣のテントでは材料揃えてカンカラー三線の作り方を教えていた。材料費は3000円。記念に1丁作って貰い、アルゼンチンに持って帰ることにする。作った人は上間哲朗という今帰仁系の若者で、おじいさんはアルゼンチン帰りだといっていた。