Jueves, 19 de Enero de 2012 |
沖縄県人移民100年史編纂委員会の |
丑野隆史協力委員の帰国送別会 3年間にわたり献身的に協力、成果
もう2カ月ほど前のことになるが、沖県連の「沖縄県人移民100年史編纂委員会」のメンバーである、丑野隆史委員が帰国することになり、その送別会が9月30日(金)13時過ぎより、中城会館で行われた。 これは、移民史編纂委員会の事務所が資料、スタッフの関係でらぷらた報知社に置かれ、丑野委員と親しい交流があったため、沖県連とらぷらた報知の共催で催された。沖県連の新垣定二会長、比嘉アントニオ・善雄・編纂委員長・兼らぷらた報知社長、新里孝徳財務委員長、玉城昌一、新里真一、崎間幸久、中山正二、比嘉盛保、崎原朝一らの委員、新聞社関係者のほか、秋吉勝秀公使夫妻、植松聡領事夫妻が肩書き抜き、私的な参加があった。 丑野さんは、東京町田市の出身で、専門学科に国際交流科があった沖縄の名桜大学を選び、そこで4年学び、さらに沖縄が好きなことから、本部の私立高校で教職についていた。今回の移民史編纂に当たり、沖県連の要請にこたえて名桜大学側が、協力に賛同して推薦してくれた人が丑野さんだった。初め2ヵ年の予定だったが半年延長し、さらに半年足して合計3年残ったことになる。 初めに、新垣沖県連会長から「アルゼンチンに到着してすぐ、沖縄県人移民100周年記念式典・祝賀会間際でてんてこ舞いしている時で、早速それに狩り出される始末だった。これまでに熱心に移民史資料集め、取材に協力してきたが、それ以外沖県連のほうにも手助けしてもらったこともあったが、きめ細かい気遣いができる人だった。沖縄に帰ってから、これから公務員試験準備に入るが、就職先でアルゼンチンの経験を生かして欲しい」、と挨拶した。 つづいて、比嘉移民史編纂委員長は「感謝に堪えないいろんな働き、動きをしてくれた。現場のことはいっしょに働いた崎原から挨拶があるはず。ただ残念なのは、丑野君の滞在中移民史が完成できなったこと」、とこれまでのことを感謝した。 さらに、崎原日本語部門担当委員長より、「心から有難うと言いたい。単に働くだけでなく、自分からこうやりたいとして、自分で可能性を考え出して手をつけてくれた。協力としては、これ以上にない遣り方だった。 はじめは、沖縄県人移民について、ほとんど知識はなかったはずである。沖縄関係の資料は、途中、一度沖縄に帰ったときかなり資料を探し出して戻り、いろいろ読んで知識として蓄え、今ではかなり蓄積したことになる。
こちらから教えることでも、疑問のあるもの、納得できないものは質問して追究、いい加減に片付けなかった。 東京で生まれて沖縄で大学に学び、沖縄の人間、気候、習慣がすっかり好きになったが、人間としてはきっちりしたことを求め、ルーズさには甘くなかった。 また、お父さんが東大教授の考古学者だったが、それを別にひけらかすこともなかった。考古学調査で何度もペルーに行った父の関係で、隆史君も南米に魅かれたとのこと。 彼のいいところは、また、誰とでも友達になれたこと。韓国系、中国系の若者たちとも親しい付き合いがあった。 一つ彼のことで心配したのは、移民史の手伝いが長かったことから、ストレスにやられる可能性があった。たとえば、南米一高いアコンカグアの登山に特有の高山病プーナがあるように、ベテランの登山家でもやられることがある、旅行に慣れたベテランでも、日本から遠くは慣れて暮らすと、ストレスにかかることがある。 FANAの日本人移民史編纂時代、JICAのシニア・ボランティアとして協力してもらった和田上さん、自主的に自費協力してくれた辻本・現東北大学准教授でもやられたことがあったからである。 懸念するほどのものではなく、小さいものはあったようだが、避けることができた。友達がたくさん居たメリットが効果的だったようである。 東京ではなく沖縄に帰ってから公務員になって暮らしたいとのこと。これまでの南米体験、移民史に関係したことが活かせる職場だったら、一生懸命手伝ってもらった僕らとしても喜ばしい。いろいろ有難う」、と締めくくった。 新里財務委員長の音頭で乾杯、丑野さんが好きだった、チンチュリンも混じったアサードの会食に入った。 最後に丑野さんから、「夢のような3年間だった。それが消えないよう、しっかり前向きに生きて行きたい。私の移民史協力がこれで終わったのではなく、沖縄にいても手伝えることがあるはず。取材、資料集め、執筆など遠慮なく言いって欲しい」、と挨拶があった。 その後、丑野隆史さんは、帰国前の忙しい暇を割いて、アルゼンチンでの印象を次のように話してくれた。 「やって来たのは、 沖県連の移民100周年祭の前でした。移民のことは少しは勉強した積もりだったけど、また1から始める感じだった。 まず、式典、諸行事の手伝いから始まった。一日目、1週間目が過ぎ、アルゼンチンという一つの国で、沖縄県人として主張して行動し動きがあることにびっくりした。まるで民族みたいな感じがした。 食事では、肉は美味しいし好きだった。意外とモンドンゴとか、チンチュリンとか、郷土料理にはまり込んだ。肉ばかりだと疲れてしまう。肉料理はただ焼くだけという感じ。性格が出ている。食材があるのに、日本だったらいろんな工夫がある。植えれば何でも収穫できるし、放牧があるし、魚は何でもある。 自分で料理するのは大好きだった。味噌、醤油、何でもあるし、作りやすかった。ドゥルセ・デ・レーチェは苦手。アルファホーレスは甘すぎる。 アルゼンチン人で好きなのは、喜怒哀楽がすぐ出ること。泣きたいとき、喜ぶとき、人間らしくてよい。日本人はその逆。他人にどう思われるか自重してしまう。 気候は沖縄から来たので寒かった。アルゼンチンで生活とか移民史作りに疲れることはなかった。 アルゼンチンではいろんな階層があり、勉強したくても出来ない人がいる。その中で日系二世、三世は非常まじめに勉強に励んでいる。すごく優しかった。悪い人に会ったことあがない。何かあれば助けてくれた。 移民史作り作業が進んでいく過程で、100年前の生活など、考えられないぐらいの冒険だったと思った。地球の裏側に船で赤道越えて来るが、見ず知らずの土地だし、冒険心の持主だとすごく尊敬する。自分の子供にちゃんと教育につけたところが凄い。 日系コミュニティーという狭いところに入り込んでいるところが、イヤだ・・・ではないが、コムニケーションは日系人だけという印象を受けた。見えないところではコムニケーションがあるかもしれないが、信用するのは日系人の間だけという感じだった。 ブエノスアイレスは特殊な街だと思った。個人主義、白人至上主義が強い国。東洋人は生きることは難しいと思った。一世の人たちは大変だろうなあと思った。チーノ、チーノと馬鹿にされる。 逆に、そういう特殊なところが好き。たとえ馬鹿にされていることに、快感を感じる。不快感ではない。タクシーなどで、日本人は好きだと言われるのには、疑問を感じる。日本人はハイ、ハイ、ハイだ。悪いイメージがあるわけない。肩を並べて同じレベルに見られているのか。そういう見方がある。それでも上にいけない。その辺、中国人、韓国人ははっきりNOが言える人たち。アルゼンチン人でさえ苦笑させてしまう。 日本人が好感もたれるのは誇りだし、先輩に感謝したいが、その反面、それでいいのかなと複雑な気持ち」 写真説明、前列中央が丑野さん、その右2人が秋吉公使夫妻、丑野さん左が比嘉編纂委員長、その左2人が植松領事夫妻。
[編集部注 丑野さんの送別会や帰国は、ちょうど第5回ウチナーンチュ大会を前にした時期だった。また。社内スタッフの人事異動、コンピュータの不調、担当記者のウチナーンチュ大会参加などが重なったため、この記事の発表は大幅に遅れてしまった。]
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