Lunes, 14 de Mayo de 2012
着亜60周年のチチャレンガ号同航海者

家族揃って、永い航海、亜国生活振り返る

1952年4月18日にブエノスアイレスの港に到着した、オランダ船チチャレンガ号の同航海者たちが去る6日(日)午後2時過ぎ、市内にある中城会館に集まり、大きな節目を祝った。マルデルプラタから駆けつけた家族もあり、60年振りの出会いとなったが、同航海者24名、二世、三世、混血も混じる家族もあわせて50名余が揃い、懐旧談に浸り、余興を楽しんだ。
まず、特製アサードや持寄りの日本料理の会食から始まった。
チチャレンガ号(1万972トン)は1952年2月4日、勝連半島にあるホワイトビーチから85名を乗せて出発、75日にわたる長い航海のあと、4月18日、ブエノスアイレスに到着している。

話題の多かったグループである。まず、芸能人が多い。栄口朝行、亡妻の定子、下条善徳、新門定雄、新門スミ、大庭キク、儀間ヨシコさんたちで、三線から琉舞まで揃っている。
また、帰国二世として安里昌繁、前鈍内小マリオ、喜屋武清松(ペルー二世)、仙波(旧姓松堂)枝美子さんたちがいた。移住再開後すぐ、アルゼンチンでは在日二世呼寄期成同盟会が1947年8月に設立された。戦前日本教育のため送られた二世たちを亜国政府、あるいは自費で呼寄せることが始まっていた。
さらに、航海中に生まれた大城(旧姓比嘉)スサーナ・タカ子さんは、50歳になるまで自分の正確な誕生日が分からなかった。慣れない海外旅行中、それも船中であり、家族にとって場所が分からずに手続きが遅れ、戸籍上生年月日がずれて、生まれた日も確かでなかった。それが、着亜50周年の折に話が出て、下条さんが丹念につけていた日記により、1952年2月21日16時、シンガポールで誕生したことが明らかになった。しかも、新米の船医で経験が浅いため、英語ができて看護もできる下条さんが頼まれて、産婆役までつとめていた。
ほぼ食事が終わる頃、新門さんの司会で祝賀が始まる。はじめに先没者への黙祷。つづいて下条さんの挨拶。「10年前までは皆さん健康そのものだった。今日は同航者に家族揃って来て頂いた。前回の50周年は、リバダビア大通り4893番にある中華料亭で挙行したが、50人が参加した。55周年も計画したが、都合で取りやめ。あれから10年、9名が亡くなり心淋しい。これは人生にもたらされる運命であり、ご冥福を祈るばかりである。今日は60年振りの人達もあり、感激しているところ。これまでのアルゼンチン生活を振り返ってみると、嬉しかったこと、楽しかったこと、辛いこと、穏やかでなかったことがあったが、達者でやれたこと、これが幸福というものでしょう。皆さん健康管理をして、またお会いしましょう」と結んだ。
栄口さんの音頭で乾杯、さらに安里さんがスペイン語で挨拶をつないだ。「自分はアルゼンチン生まれ。ここの名前はアントニオ。10歳のとき日本へ行き、27歳のとき帰国した。どんどん時間が過ぎた60年だった。多くの思い出がある。最初に下条さんに出会った時、色は白いし格好よく、アメリカ人だと思った。
アルゼンチンでは、頼母子をおろしてボリッチェ(酒場)を開いたが、運がよかった。
最近のことだが、日本から来た医師にガンと診断されたが、手術は避けた。1週間入院、その後まだ元気でいる。今日は皆さんとお会いできて嬉しい。ここまで生きてきたことになる」、と淡々と話した。
ドクトラ栄口久美子(ブエノスアイレス市政府保健省教育学術総局長)からも挨拶。「60年前、沖縄は貧しい生活の中にあり、将来の希望を目指して、慣れない異国への長い航海が始まった。各港で抱っこされての上陸だった。永い旅は大変だったでしょう。この60年間を両親は生活と闘い、文化や伝統を維持しながらくぐりぬけて来た。白髪が混じり、太り、子や孫、曾孫がつづき、三線を背負い、夢や希望を実現させていった。60周年を神様の加護のもとに、こうして皆揃ってお祝いできる」とした。
同じく、ドクトラ糸数ふみ子さんが「私は幸子の娘です。足が不自由なので代理できました。私は当時5歳だった。印象に残っているのは、出航のとき(別れの)のテープを投げ合って、たくさんの人たち、泣いている人たちも居たことだった。アルゼンチンはパライソ(楽園)だと話し合っていた。航海中、階段から何度も転げ落ちた。旅行中、ずっと泣いている娘さんが居た。嵐が怖かった。アフリカで初めて黒人の子どもを見た。沖縄で見るのは大人の黒人ばかりだったから。白人と黒人の区別があるところだった。
ブエノスアイレスは汚れた感じだった。沖縄のように透き通ってなかった。沖縄の空のあるところに帰りたかった。まもなく言葉を覚え、アルゼンチン人の思いやりのある仲間が出来た。3人の子ども、孫2人がある。アルゼンチンは私に、健康、可能性、友達、すべてを与えてくれた。三線は分からないが感動する。日本人は働くこと、正直で抜き出ている」、とシコロガ(心理学医)らしく静かに語りかけた。
また、下条さんの娘さんがスペイン語で、善徳さんの克明な日記をもとに、航海中の寄港地、日付など、スライドの地図を示しながら説明した。
余興は、栄口さん、前鈍内小マリオサンの三線による「嘉例の演奏」、新門スミさんの踊り「かぎやで風節」ではじまり、着物の11名の娘さんによる盆踊りで盛り上がった。
最後に栄口朝行・カルロスさん親子、比嘉スサーナさん3名の誕生祝いがあった。スサーナさんは「(10年前の)50歳まで自分お誕生日が判らなかった。それが判ったのは下條さんのお蔭」と改めて感謝した。
この日参加した家族に、チチャレンガ号の小さな手作りの模型と写真、それから、スサーナさんより、船名の入ったビーノのグラス2個づつが贈り物として手渡された。