Miércoles, 25 de Abril de 2012
沖縄、大阪、宮崎 歩き記 (6)
Escrito por つづく   

沖縄空港から妻と一緒に関西空港へ飛び、大阪市内へ電車で入り、新大阪駅近くのホテルへ泊まる。朝食の食堂へ集まった泊まり客は出張社員、工員風の人達が多かった。
御堂筋線に乗り、天王寺区域にあるお寺へ行く。昨年初頭に亡くなった義兄に線香を上げるためである。仁王像の立つ寺門が見えるだろうと見当つけていたが、それらしきものは見当たらない。たずねながら歩き回る。人家つづきの思いがけないところにあり、石段を登ると意外と大きな寺で、たくさんの参詣者。
帰途、新大阪駅近くに大丸百貨店があり、またいくつか建築中のものもある。百貨店に入ると、沖縄同様人の動きがいっぱい。ある人評して「だから日本経済は大丈夫。底力がある」と言うが、納得できない。人や金を吸い上げている巨大な装置である。
翌日、奈良に近い羽曳野に向かう。奈良に近いせいか、古墳が目立つ。沖縄、宮崎に疎開してからも親交のあった友人だが、大手術のあと快方へ向かっていた。その弟とは60年ぶりの再会。彼がホテルとの間を車で往復してくれる。
さらに翌朝、ホテルから新大阪駅へ向かう。勤め人のほとんどが濃灰色のスーツでネクタイ。沖縄のかりゆしウエアとは対照的。九州の小倉まで新幹線に乗るわけだが、新宿駅ほどではないが大勢が様々に動いていて途惑う。駅員に尋ね、標識通りに歩いて乗り場へたどり着く。

宮崎まで空便の方が早いのだが、鉄道の旅も好きだから。しかし、以前のような汽車の旅の醍醐味はない。ほぼ満員。乗客の持っている飲み物は、ほとんどが「おーいお茶」。沖縄では「サンピン茶」が多かった。
広島の田舎では赤瓦の家が目立った。沖縄のように、空に手を上げているような明るい赤瓦ではなく、大地に親しもうとする沈んだ茶色だ。
小倉で日豊本線に乗り換える。九州路に入ると風景は田園や森が多くなり、穏やかになる。ほぼ稲刈りは終わっている。実をつけた柿の木が増える。
宮崎地域に入ると、頭の中にあるくすんだ山並みが戻ってきて、現実の山並みと重なる。
しだいに動悸が早くなるうちに高鍋に到着。同級生のN君が出迎えてくれる。最後にいた高鍋高校の傍を通ってくれる。もう昔の校舎ではない。遠くの尾鈴山脈がかなり高く見える。おかしなもので、最初に来た時は想像していたものより低く、今回は想像より高かった。
N君の新築した家に着く。屋根には太陽光発電装置。彼の妻と4年ぶりの再会。夫婦でアルゼンチンまで来たからである。滞在中ここでお世話になる。
翌日、高鍋高校喜寿同窓会が、この町にあるホテル四季亭で開かれた。集まったのは皆で82名。普通科が4学級、家庭科が2学級あった。昔、普通科には女生徒は約3分の1で、家庭科はすべて女生徒という割合だった。世話人委員会の記録によると、総勢246名、物故者42名、所在不明者22名。さらに宮崎県内に住むものは113名で、さらに県外では北海道3名、東北1名、関東32名、中部4名、近畿15名、九州13名、外国が私1人という広がり具合。沖縄出身者は私と、欠席した川満という女性1人だった。
丸いテーブルを囲んで座る。昔の面影で分かる人、全く分からない人とさまざま。最初は校歌斉唱。うろ覚えで覚えていた。
アルゼンチンで日系社会の大勢が集まると、皆同じ方向向いて歩いているという感じだが、同窓会では一人ひとり勝手な方向向いて歩いている感じが伝わってくる。みな同じ年で、しかも私も含めて一人ひとり違った老い方があった。感動した。
高校2年でアルゼンチンに渡ったが、印象に残っているのは松浦勇先生。皆、親しさをこめて「勇さん」と読んでいた。薄っぺらな新制中学から進学すると、なにか、旧制高校の教師の雰囲気があった。一冊の本を読んでくれた。笠新太郎著の「ものの見方について」という、当時ベストセラーになった本だった。著者は第二次大戦中、朝日新聞特派員としてイギリスやヨーロッパの生活をいきいき捉えた随筆で、敗戦後の日本で非常に新鮮だった。
その中に「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えたあとで走り出す。ドイツ人は・・・」、と国々の国民性を短く的確に描き出したところがあり、大きなインパクトを受けた。この本を買ってアルゼンチンに来たが、友人に貸して戻らず、また注文、また貸して、今度も戻らないままになっている。
喜寿同窓会はバイキング料理の会食があり、カラオケがはじまり、男性だけが歌った。このあと、クラスごとに分かれて懇親会。僕らのクラス会はN君の屋敷に帰り、自宅の傍の旧家を改築した文化センターで世話人グループも加わって開かれた。
これは県内の高千穂町岩戸の土呂久部落にあった、江戸時代末期に建てられた藁屋根の古い民家を購入、解体し、建て直したものである。囲炉裏の煙にいぶされて、黒光りする太い梁(はり)、柱、厚い床板、扉など。秋になると毎月第3火曜日夜7時から、「囲炉裏端」会が催されるそうだが、このクラス会が今年の「囲炉裏開き」になった。太い薪の炎が囲炉裏を囲んだ20人ぐらいの顔を照らす。宴会場で残ったご馳走があり、持ち寄りの一品料理、ビール、日本酒、焼酎が加わった。中学の同級生で大阪に働きに出て、沖縄の今帰仁系の人と結婚したM子さんが届けてくれた「サーターアンダギー(揚げ砂糖菓子)」も出た。大阪でも高鍋西、東両中学合同の同級生たちが喜寿祝いをやっているとか。
この文化センターは、非営利活動法人「野の花館」として、子どもたちの自然体験、文化創造の場、子どもたちを育てる大人の連帯の場として設立されたものである。ミニコンサート、ピアノコンサート、人形芝居などが催される。チラシを見ると沖縄関連では、「島唄」の宮沢和文、「琉球舞踊と三線」の仲嶺社中、ゆんたく一人芝居「南島妄想見聞録」(藤井勇人)、アニメ映画「対馬丸」の上演、上映が行なわれていた。
翌日、中学の同窓生の喜寿同窓会が隣町で行なわれたが、日程が許さないので割愛、羽田、成田へと移る。帰りのロンドン回りのコースは私ら夫婦だけ。往路で経験しているものの心細い旅だった。
ロンドンのヒースロー空港は、世界で最も多く利用されている国際空港。飛行機は4つのターミナルから、90を超える国々の180を超える目的地に飛び立つとかで、混雑していた。東京便の到着地点からブエノスへの発着地点には、空港内の地下鉄で移動した。
6時間の待機だった。いろんな人種の人達が行き来する。黒人系が多い。いろんな店、カフェー、レストラン。巻きずしのほか味噌汁もあり、女性が箸を使って食べていた。
飛行機に搭乗すると、ブエノス行きのイギリス人観光客が多かった。
エセイサ空港には出迎えの長男夫婦、孫が来ていて、やっと旅が終わった。