Sábado, 07 de Abril de 2012
沖縄・大阪・宮崎歩き記(3)
Escrito por つづく   

「ハワイの日系人」(仲嶺和男 ハワイ パシフィック プレス)
[日本人移民] 明治政府とハワイ政府との協定で、1885年から移民が本格化し、日本人移民が禁止される1924年までに約20万人がハワイの土を踏んだ。最初の10年で半分は帰国したが、二世の誕生が増えて、太平洋戦争が勃発したころには全人口の44%、約半分を占めるまでになっていた。
現在、それは28%に低下。他の州から移り住む人が増えたほか、フィリピン人、韓国人の増加などが原因です。それでも3人に1人は日系人・日本人という状況は続き、多数民族ということになる。

[日本の縮図] 移民に続いてハワイに来たのは僧侶。お寺を建て、キリスト教、新興宗教、おそらく全ての日本の宗教が来ている。
お寺と教会は移民の溜まり場となり、次第に日本人社会が形成された。二世の誕生が増え、お寺と教会は彼らの教育にも力をいれていった。やがて、日本人を対象にした商業、新聞社、洗濯屋、下宿、雑貨店が誕生、各地に〝日本人村〟ができた。
さらに、県人会や郷友会,日本人病院,商工会議所、といった団体が創立された。宗教のほか、舞踊、音楽、武道、茶道、華道、詩吟など各種の日本伝統文化が定着し、文字通り日本の縮図とも言える社会が生まれ、現在も行き続けている。一世が健在だった頃は、[日本国ハワイ県]という言葉が聞こえた。
[ウチナー社会]
ウチナーンチュは独特な存在感がある。沖縄芸能が盛んで、ハワイ大學には世紀の講座があり、毎年多数の学生が受講している。種々の催し、パーティーなどの余興には、フラダンスとオキナ・ワダンスが登場する。
個人的な生活でもウチナーンチュにこだわった生き方をしている人が多く、ハワイオキナワ連合会には、49郷友会や団体が加盟している。三世の時代になり、毎年新年会、夏にピクニックを行って親睦を高め、葬式など不幸なことには皆で助け合っている。
二世、三世が中心になって運営する、奨学金募集のためのフアッションショー、沖縄文化の継承発展のために支援金提供とか素晴らしい功績があり、芸能関係の20以上の団体がある。
このように草の根的に広がったパワーが大きく花開くのが、9月の勤労感謝の日に開く沖縄フェスティバル。ワイキキのはずれにある公園で土・日の2日間にわたって開催、終日沖縄芸能が披露され、5万人以上の観衆で賑わう。
沖縄芸能は、太平洋戦争終結とともに、火山が爆発したかのように盛んになった。敗戦により沖縄が日本から切り離されて独立的存在になったこと、それに沖縄戦における日本軍による沖縄県民への暴虐に対する同情心、愛郷心が高まったことです。

[日系人・ウチナーンチュの将来]
日系人・ウチナーンチュのハワイにおけるパワーは、現在をピークに次第に縮小していくでしょう。日本の大企業の波が押し寄せてきて、移民一世らが築いたスーパーや商店が次々に閉鎖に追い込まれている。
ハワイ大学総長人事なども同様の状況。何よりもマスメーディアに登場する日系人、大企業の役員の中に日系人の名前が少なくなるなど、各面にグローバル化の影響が及びつつある。
とくにウチナーンチュ社会の場合は顕著で、ハワイ一だったスーパーが米本土のスーパーに買収されたほか、大型のレストラン、企業が倒産するなど、パワーは半減しつつある。

[結び]
日本各地から集まった日本人が住み、日本の縮図ともいえるコミュニティがあり、ウチナーンチュが一番輝いて見えるのは、正直な人が多いということです。

エイサー大会


エイサー大会は奥武山運動場で行なわれたが、観衆の多くが地元沖縄の人達で、各地域でエイサー・コンクールが盛んであることを反映しているようだ。
屋慶名青年会、今帰仁村湧川青年会など東京新宿のエイサーにも参加しているとか。一人の酔っ払った年寄りが青年たちのエイサーに紛れ込む。担当者がエイサーの外に連れ出すが、また戻る。酔っていても仕草は若者たちと合っているので、昔取った杵柄というところ。
隣の補助運動場のテントの中で、材料を無料で提供して楽器パーランクーの作り方を教えていた。参加して1個仕上げる。隣のテントでは材料揃えてカンカラー三線の作り方を教えていた。材料費は3000円。記念に1丁作って貰い、アルゼンチンに持って帰ることにする。作った人は上間哲朗という今帰仁系の若者で、おじいさんはアルゼンチン帰りだといっていた。