Martes, 28 de Febrero de 2012
「戦争とカンカラ三線」 (下)

再び屋嘉収容所

9月になって、急に沖縄へ送還されることになった。航海は夜となれば三線の音と唄で消灯まで賑わった。それは、ハワイ収容所から持ち出したベッドの横棒製の三線だった。
戻った屋嘉収容所はもっと整備され、新しいテントが並んで有刺鉄線も二重に巡らされ、監視も厳重になっていた。そこでは本土出身兵、沖縄出身、朝鮮出身と区分され、待遇も「オキナワ」は仕事も楽な所、特別な自由が与えられていた。10名一組のテントで、砂地の上に毛布を敷いて雑魚寝だった。

10月の中頃、台風に襲われた。沖縄周辺に碇泊する米軍の艦船が大波のため暗礁に乗り上げて大破、沈没した。金武湾一帯の大型飛行艇など何十となく大破され、屋嘉や伊勢の砂浜に打ち上げられ、屋嘉収容所もテントは吹き飛ばされ、後方の山からなだれ落ちる濁流で一帯は水浸しになった。山陰に残ったテント舎に避難したが、水はなかなか引く様子もない。Kレーションの空き箱を並べてその上に座り、テントを支えはがら強風を避けた。
一日中台風は暴れまくった。そのとき誰かが「なちかさや沖縄 戦場(いくさば)になとい」と琉歌を詠み始めたのが動機となり、屋嘉節の作詞となった。 
同郷の浜崎清さんが米軍上陸戦に敗れ、非難を余儀なくされた当時のこと、米軍に捕らわれ屋嘉収容所へ連行された淋しい道行き、山原で山鴉がカアカア泣く様は親兄弟、妻子の生死も知らない悲哀の情として詠まれた。
最後は翌年昭和21年3月、自由の身となり、懐かしい生まれ故郷比嘉島へ帰り、家族、島の人々と生きた喜びを語り合って明かすところで終る。このようにして屋嘉節は作られた。

アルゼンチンに移住
1952年4月、栄口さんは23歳の時、妻定子さん、2歳の長女久美子さんとアルゼンチンへ移住するため、沖縄を出発した。
最初、首都ブエノスアイレスから約400キロ離れたボリーバルで洗濯店を開き、のち、子供の大学入学のため、ブエノスアイレスへ引っ越した。
久美子さんは、サルバドール大学卒の医学博士。専門分野は伝染病、肺結核、免疫学。国立学術科学技術審議会研究員、サルバドール大学医学部部長の経歴があり、現在、ブエノスアイレス市政府保健省教育学術局総局長に就いている。
栄口さんは2年前に妻定子さんを失ったが、長男カルロスさん、孫、曾孫がある。今なお、鍼(はり)、灸、指圧を営み、また、三線への情熱も衰えず、自らも習い、野村流音楽協会支部で後進の指導にも当たっている。