Jueves, 23 de Febrero de 2012
「戦争とカンカラ三線」 (上)
Escrito por つづく   

沖縄から、三線の専門家たちが南米にある三線の鑑定のため諸国を巡回し、アルゼンチンを訪れたことがある。沖縄の人たちと三線のつながりは強い。戦後、カンカラ三線というのがあった。幾つかのルーツ、ストーリーがあるようだが、いずれも戦争と絡んでいる。
ところが、そのカンカラ三線が初めて生まれた現場、原点に居合わせた人がアルゼンチンに現存している。野村流音楽協会亜国支部の元支部長、現相談役の栄口朝行さん(84歳)で、野村流と湛水流の師範でもある。背景には惨めな戦場の日々があった。

 

飯盒の茶褐色の飯
栄口朝行さんは1928(昭和3)年、沖縄県勝連町比嘉で生まれた。戦時中、16歳で現地召集されて玉部隊27大隊に入隊、約1ヵ月の昼夜兼行の軍事訓練を受けた。ベニヤ板で作られた長さ5㍍、幅1㍍半の魚雷丸零(まるれい)の運搬作業に当たったが、後方に爆弾2個、自動車エンジン2台が装備され、中城湾近海の敵艦攻撃用のものだった。しかし、速射砲にやられて全艇が破壊された。激戦の中、食料運搬に変更。山道でにわか雨にあい、付近の壕で雨宿り中寝入ってしまい、目覚めたときはすでに隊員が出動した後だった。地形も知らない山道をさ迷い歩くうち、暁部隊通信隊の歩哨につかまって連行され尋問された。「貴様英語はなせるか、米軍のスパイだろう。白状しなければ叩き切る」と目隠しにされた。ちょうど壕内にいた沖縄出身の看護婦が助けてくれと泣きすがり、ようやく未成年の栄口さんの事情も聞き入れられ、一命を救われた。
その後、道路は艦砲射撃や爆撃で破壊されてトラックは使えず、防衛隊が弾薬運搬作業に当たった。やがて、砲兵隊陣地も破壊されてその仕事は終り、東風平へ移動、食料運搬に当たる。昼夜となく艦砲や迫撃砲の射撃にさらされた。
ある日、朝食の飯盒の蓋を開けると、白いはずの飯が茶褐色になっていた。炊事の仕事も夜間しか出来ない。当番に聞くと水がないので近くの砲弾の穴から水を汲んで炊いたという。そこを調べると何と周囲は死体がいっぱい、その血で水が赤くなっていた。
さらに激戦、敗退、後退がつづく移動の中で至近弾を食らい、左顔面、左眼、胸部をやられ、中城出身の仲間に助けられ、小さなテント張りの野戦病院で手当てを受けた。4,5日は顔面が腫れ、オカユも指で口を割って差し込んでくれた。
やがて、負傷兵に避難、解散命令が出された。負傷で片目の栄口さんは、大腿部を負傷した同郷の仲間と不自由な体を引きずりながら摩文仁の海岸へ出た。傷口は化膿して悪臭を放っていた。
安全地帯を求めて具志頭へ行く。米軍は舟艇からメガホンで投降するよう宣伝していた。岩窟へ潜み、岩から落ちる雫を戦友と分け合ってすすった。
6月26日頃、自動小銃の米兵、通訳らしい日系兵士に呼び起こされた。無意識に手榴弾をつかんでいたが、戦友がその手を押さえ「出てみよう、後はどうなってもかまわん」と制され、捕虜になった。その頃あちこちで沖縄人が自爆していた。
具志頭の崖の上まで米兵に支えられて登ると、沖縄の住民と日本兵の捕虜が大勢いた。米兵が水とKレーション(戦闘用携帯食)を持ってきてくれた。初めてたらふく飲む水の甘さは格別だった。
トラックで金武村の屋嘉収容所へ送られた。砂地の一帯が埋め立てられ、有刺鉄線を張り巡らしたテントだけのものだった。DDTで消毒され、髪を刈られた。

ハワイ収容所
その後ハワイの真珠湾へ送られた。負傷した耳からウジが出て、片目も見えなかったが、治療を受けて回復した。朝晩食事するだけの単調な生活だった。時間を持て余した。厚紙で作った碁盤で五目並べ、沖縄出身者は角力を取り、手拍子で唄をうたい,踊った。
島尻出身の知念という人が、野戦用折りたたみ式のベッドの横棒に、ブリキ缶のを二分したのを利用して三線を作り、糸は最初蚊帳の紐から抜いた糸を使用したが、音色が悪い。アメリカの電線は12本の線から成っていたが、その中心の4,5本がワイヤ線だったのでそれを抜き取って利用すると、かなりいい音がでた。それが収容所での三線作りの初めだった。野戦用ベッドの横棒は長さと太さが三線を作るのに適し、先の方はベッドを張る場合に差し込む穴が開いているので、糸蔵の穴を開けるのに丁度よかった。
テントの中でその三線が鳴り出すと、たちまち何人かが集まり、唄い出し、踊りが始まった。「私もその知念さんから初めて三線を教わり、”口説〟ぐらいは弾けるようになった」、という栄口さん。
8月に入り、未成年者は本土で教育されるということで、医師の診断や伝染病の予防注射を受け、出発間際の8月15日、日本の無条件降伏のニュースに接した.男泣きに皆泣いたという。