Martes, 07 de Febrero de 2012
沖縄、大阪、宮崎歩き記 (5)

食べる・飲む
今回のウチナーンチュ大会は外国の沖縄系人だけでなく、県民にも参加を呼びかけたので、動きが出て、これまでにない広がりのある交流になった。
かりゆし・アバンリゾート・ナハ というホテル兼レストランで食事をした。Kという小学校の同級生とその友人2人が夫婦同伴で3年前、沖縄県人移民100周年祭の折、慶祝団に混じってアルゼンチンを訪ねてきたが、同じメンバーが集まった。
このホテル兼レストランは那覇の泊埠頭の近くにある。茶色系統の人造大理石をあしらい、どっしりした高級感がある。
私の小学生時代の泊港は漁船や薪を積んだやんばる船が入る小さな港だったが、今では、340㍍の岸壁、波の上(地名)につながる泊大橋臨港道路が架かり、離島への船の出入りするほか11万トン級の船も入れる港だ。沖にはちょうど白い大型クルーザーが停泊していた。こうなると、私には思い出のひとかけらも浮かび上がらない異国の風景である。

週日の昼過ぎのせいか、お客さんはまばらである。自由に取り分けて食べるバイキング式の料理で、豊富な種類が揃っていた。
やがて、時間だからと出ることにした。何時から何時までと申し込むようだ。同級生のKに「今日の一人当たりの食費は?」と聞いてみた。「1800円」。意外と安い。時間制にして儲けが出てくる仕組みなのだろうか。
Hさんと夕食 Hさんは15年ほど前にアルゼンチンから帰った人だ。3階まで駐車場になっている大手百貨店である。車の多い沖縄で、駐車に心配なく買物、食事が出来るようになっている。夕食時の名店街のような総菜や調理済み食品店をほぼ軒並み人がいっぱいだ。
沖縄では、食事が出来る場所や小さな飲み屋が驚くほど多い。「6~7人ほどの常連があれば、あとは通りががかりのお客さんで十分自活していける」という。それだけ一般の人たちの所得が低く、物価が安く、小さな商いで気楽にやろうとしているのだろうか。統計的に見ると、沖縄県は一人当たりの県民所得、金融機関預貯金残高は全国最下位である。
食べるといえば、父や母の方の親戚たちが、歓迎夕食会を開いてくれた。そして、今回持参した明治時代に写した祖父と甥、大正初期に写した曾祖父、その他の家族写真、伯父がまとめた祖父一代記などがことのほか喜ばれた。ということは、年長者たちは故人となり、私がいつの間にか年長者の一人になった証だった。また、年下の者たちも一族の歴史をよく知らないまま、中年、老年に差し掛かっていた。

沖縄アルゼンチン友好協会
話は前後するが、この沖縄アルゼンチン友好協会について、もう一度触れたい。
世界ウチナーンチュ大会に訪れた、アルゼンチンからの訪問者歓迎会に先立ち、沖県連関係者を中心に打ち合わせのための交流夕食会が、”パレットくもじ〟で催された。この友好協会は沖縄と移住先の海外とを結ぶ数ある友好団体の中で、最も積極的に活動しているグループである。
屋比久孟盛会長、尚学院高等部教頭である与座宏章幹事、そのほか、琉大でスペイン語を教えている又吉パトリシアさんはじめ女性たちもいて、皆アルゼンチン帰りかアルゼンチン生まれである。
以前、沖縄開発青年隊の50周年記念祝賀をやった際、「アルゼンチンでやった厳しい労働を、そのまま沖縄でやっていたら、きっと成功したはず」、と言った人がいた。この協会のメンバーにも、順調に事業進めている人たちがいる。厳しい労働を経験しただけでなく、右と左のものの比較が出来ること、視野が広くなったことが加わっているのではないか。
その中でも異色な経営者は北中城出身の大城正雄さん。グリンフィールド社とオリオン商事の社長である。農産物の生産、加工、販売までやっている。
冬春の間は県内の自社農場、指定契約農家中心で生産する。南城市大里は古くからサトウキビを中心にした農業地域だが、最近ではサトウキビに代わってゴーヤー、インゲン栽培が盛んだ。レタスを主力にキャベツ、青ねぎ、マンゴー、ピーマンなどが加わっている。
また、夏秋の間は県外の提携先の農業法人・契約農家中心で生産する。
今は夫婦共稼ぎの家庭も多いし、若い世代の食生活を豊かにするため、カット野菜、つまり刻んだ野菜、すぐ食べれるように処理したものまで手がけている。ISO22000という消費者に品質の良い食品を届ける、食品安全の国際標準規格があり、その認証を取得するようすすめている。
ウチナーンチュ大会終了後、アルゼンチンに皆が引き揚げてきた来た頃、そのあとを追うように大城さんはメンドーサまで飛び、農業生産事情を視察していた。