Viernes, 10 de Mayo de 2019
うるま園たより

青年開発隊の60周年

秋晴れのうるま園は樹木のモミジが始まり枯れ葉が、そよ風に舞っている季節です。

 

日本では平成の時代から新しい元号「令和」の時代へと替わった、令和元年の初日2019年5月1日に沖県連の総合リクレーシオン施設うるま園で100人余の人々が集まったアサード(焼肉)パテーイが催された。

戦前からアルゼンチンで農業を営んでいたウチナーンチュの先輩たちが在ア沖縄連合会(当時)を通じて、海外雄飛の志を抱く20代の若い青年たちを海外移住させる発想が具体化した。戦前戦後を通じてアルゼンチンへの移住は、親戚縁故者の呼び寄せが唯一であった。単独者の計画移住は皆無だった。

戦後沖縄に存在した琉球政府が立案したアルゼンチンへの移住計画は、現地在住のウチナーンチュの先輩たちを身元引き受け元となることで承認された。この制度は沖縄県が戦前戦後を通じて、アルゼンチン向けに実施した契約移民の最初で唯一のケースである。

募集された20代の若い青年たちは農業に従事目的で農業用重機の操作訓練と、農業技術を習得させてアルゼンチンへ送りだされた。

1950年代から始まった青年開発隊制度で総勢50人余の若者がアルゼンチンに渡っている。この制度は沖縄の日本復帰前に終了している。

今を去る60年まえ、1959年3月19日に沖縄で訓練を受けた沖縄青年開発隊の先陣4名がブエノスアイレス港に着ている。

アルゼンチンに入国した先陣4人から始まった、青年開発隊の歴史は現在では第二世代の活躍の時代に入っている。

令和元年の初日2019年5月1日にうるま園で開催された青年開発隊60周年記念のアサードの饗宴は、入国当時20歳代の若い青年たちの熱い血潮が、次世代の子孫たちに確実に伝わって居るのを実感された。

アサードの焼き上げから、接待接客の世話は成年に達した彼等の第二世代がこなした。そして一品料理の持ち寄りは青年隊婦人部の皆さんが担当した。
うるま園管理部のボルンターリオの諸君からも一部の、一品料理の寄贈がなされた。またGボール愛好者からは、青年隊諸氏に敬意を表して金一封が贈呈された。

青年隊の現状は生涯現役4人(写真)である。大部分は帰国、そして他国へ転住した。故人となった方々の遺族は亡夫、亡父の意志を引継ぎアルゼンチンの大地で力強く発展前進している。

アルゼンチンに移住した、開発青年隊の現状調査に来アした在日本の熊本大学教授「山城千秋」博士もアサード(焼肉)パテーイに同席して取材した。彼女は沖縄県旧佐敷村出身である。

1959年3月19日ブエノスアイレス港に着い青年開発隊第一陣、4人の氏名は次の通りです。我那覇隆八(在ア)、伊佐常吉(故人)、照屋盛吉(帰国)、宮城成光(帰国)。