Jueves, 23 de Julio de 2015
断食療法の勉強と体験についての回顧
Escrito por  持川知幸   

1.アルゼンチンから南米縦断、カナダ、日本へ

1970年ごろラプラタ報知新年号に断食について池田喜城氏の投書が載っていた。その中で同氏は断食者に女学生がいて顔に沢山のにきびがあったが断食後消えたこと、氏が外出散歩しているとき、道端に落ちている者でも拾って食べたくなる飢餓道に陥ると書いておられた。断食が病気療法のひとつの方法であることをこのときははじめて知った。この事が後小生が断食を二回行う呼び水となった。
初めの方は断食とは関係ない事であるが私の一生の重大な出来事なのでぜひ記録しておきたい。

1966年2月に二十五歳で単独農業移住者として来亜して六年五ヶ月が経過したころ、銭儲けなら、アメリカに限ると重い密入国覚悟で行く事にした。身辺を整理すると焼く四約五十ドル位残った。それを腹に巻いて出発した。あろう事が風采も上がらず、社交性もなく、スペイン語も下手なこの男一人でランドリーなどを始めたのであるが、案の定半年でたたんでしまう破目になったからである。当時アルゼンチンでは住み込みで月給三十ドルくらいであったし、一度独立してみると洗濯屋にしろ花作りにしろ再びペオンに戻ってやり直す気にはどうしてもなれなかったのである。1972年7月レティーロ駅からレティーロを開始したベルグラーノ線フフイ行きの夜行列車はほぼ満員であった。運賃は9000ペソ、当時1ドルは1280ペソであった。乗客を見るとたくさんの人達が毛布を携行していた。旅をするのに荷物なる毛布など持ち込んでどうするのだろうと見ていた。列車が北上を続け夜も更けてくるとようやく判った。寒気の中を走ると列車も熱をとられるのだろう車内はとても冷え始めた。人々は毛布を体に巻いて防寒に使うのだった。私も我慢できない寒さを感じて新聞紙を足や膝に巻いたが効果はない。冷える事冷える事耐えるしかなかった。早く夜が明けて亜熱帯権に入る事をひたすら思った。
通路を隔てた斜め向かいに老夫婦がいて、主人が婦人に、日本では一時間に200キロ走るんだよと言っていた。小生を日本人と見て、日本のことも知ってますよと言っておられるように思った。 列車で二晩過ごした。
ボリビアのビジャソンからタリーファ行きのバスの旅は、道の途中人家も見えない高地秘境のようなところで大勢の青年たちがフットボールをしていた。こんなところで、この人達はどこから集まったのか、不思議に思った、酸素も希薄な高地では体力の消耗もひどいだろうに。
山をけずって道をつけているところは片側は崖になっている。斜面には木一本もない。もし路肩をはずして落ちたら、はるか下のほうに見える小川まで止まるところはない、肝を冷やした。運転手も必死の形相で運転していた。ラ・パスからペルーのリマ行きのバスの出る旅行社の前に行ってみると、一人の男がバスの屋根に登りひもで地上から乗客の荷物を吊り上げている。たくさんあるのでそれだけでもかなりの労力が要るだろう。旅程の途の停車場でも荷物を降ろしたり上げたりするのも運転手の仕事である。その人が一人でラ・パスからペルーのアレキーバまで運転したのである。朝出発して翌朝についたのにである。
バスの中には七カ国の人達が乗っていたが、ほとんどの客はマチュピチュ観光のためプーノで下車した。私は路銀が少ないので先を急いだ。
コロンビアのカルタヘナの旅行社ではパナマへの道路はないので船か飛行機のどちらかで行けとの事。30ドル払って飛行機の切符を買った。そうしたら飛行機は隣の市のパランキージャから出るので急いで行きなさいとのこと。バランキージャからタクシーに乗って飛行場まで行った。やれやれ間に合ってよかった。はじめて乗る飛行機を目の前にしてこの極めて貧乏は者でも、これに乗れるのかと思ったらうれしいようなおかしいような気分になった。
双発のプロペラ機は離陸も飛行も静かで着陸の瞬間などはわからない。眼下のカリブ海は油紙を敷いたように薄白く光り、小さな波が立っていた。乗客はまばらで二人のスチュワーデスも暇そうで客席に座り話していた。
パナマからはTICAバスでメキシコ国境まで行った。運転手が親しくなった乗客にわれわれのような国際運転手でも月給70ドルだよと言ったのを憶えている。この運転手、夜は冷房を聞かしすぎてオーバーを取り出して着る事になった。
中央アメリカの食堂で、金髪の青年が話しかけてきた。そう顔立ちの良い方ではなかったが、濁りのない金髪はとてもきれいで、とても神々しく思えた。こんなのを神の子というのかなあと思ったり、キリストはもしかしたらこんなのではなかったろうかと思わせた。この青年がいくら金を持っているのかと聞いてきたのにはたまげた。
メキシコへの入国審査では列の前の人達が持ち金をみせていた。これはいかんと急いで便所に行き、腹から取り出した金は200ドル。これを見せると一ヶ月の入国許可が出た。
メキシコ市では念のために米大使館へ査証を貰いに行った。人の良さそうな米国人らしき若者は旅券の提出だけを求めた。次の日だったかに取りに行くとビザは降りた。これでやや勇気付けられた。ひょっとすると正式に入国できるかもしれないと思った。
太平洋岸米墨国境の町ティファナに着いたのは8月中旬の早朝であった。寒かったので背広を着ていた。恐る恐る米国入国審査所へ行った。荒そうな男が来て、勝手に背広やズボンに手を入れながら財布はどこだ財布はどこだと探すのである。情けなかった。これでは西部開拓時代の無法者ではないか、米国の公務員はジェントルマンだと思っていたがそうでもない。
イエロージャップが働きに来たな、そうはさせんぞという雰囲気だった。唯一のたのみは情状酌量であったが通用しなかった。一人の日本の青年が米国に憧れて遠路はるばる一ヶ月の長旅をしてきたのにウェルカムとは行ってくれなかった。懐に入った窮鳥も打たれてしまった。プリーズ・レット・ミー・ゴーを繰り返すばかりで、見ていた人達にはなんとも哀れで惨めな場景だったことだろう。
今から42年前、当時米国には何百万人の密入国者や不法滞在者がいたはずだ。独りの日本人が増えたくらいどうということもなかろうに。中央アメリカで南米に下る日本人学生に会ったとき、情報交換をして、ロス・アンゼルス近郊の日本人農家も教えてもらっていたのに。彼ら二人はそこでアルバイトをして旅行資金を増やしたとの事。メキシコであった日本人青年に米国へ密入国するつもりだといったら、もし捕まったら、強制送還となり5年間パスポートが出ないと言われた。長旅の疲れで密入国しようと思う元気もなくなっていた。無料切符を貰っても、もうこんな旅はできないと思った。
入国審査のすぐ横には密入国で捕まえた者を入れるらしい留置場らしきものがあった。間口はすべて鉄格子で中が良く見えた。一人のメキシコ人らしい若者が入っていて広げた両手で講師をつかみながら私と移民官とのやり取りを注目していた。あんたもここに入れてしまうぞと暗示させるのだろう、あれも米国密入国防止の作戦だろう。審査所の少し向こうにはグレイハンドのバスが待っていた。あれに乗れたらロスアンゼルスまで30キロ走ればいけるのにと貧乏を嘆いた。メキシコ市へ引き返すことにした。バスの中には米国入国を試みて二度捕まったという青年がいた。その男に「米国では撃たれなかったか」と聞くと、「打つなら誰も行かないよ」と言った。もっともだ、愚問だった。
メキシコ市郊外の日系にせいの経営される花卉農園で二ヶ月働いた。査証切れのために出国のとき罰金を払った。
カナダ航空では片道切符だけでバンクーバー行きを発行してくれた。バンクーバー空港の入国審査では出国の切符がないので別室に連れて行かれ、移民官から事情聴取された。カナダで難易をしようとしたのかと訊かれて、メキシコでしたことをしようと思いますといったら入国拒否となった。身柄は拘束されなかった。この50歳前後の移民官は米国のとは違って傲岸さはなく、紳士的で人をさげすんだ態度はみせなかった。言われるには、あなたは正直そうに見えるので二日間の自由時間を与えるから旅行会社に行って航空チケット入手に勤めよとの事であった。泊まるホテルはYMCAに指定された。良くしたもので広島県出身の磐田さんの旅行社を見つけた。事情を話すと、やってみましょうと快く快諾された。チケットは間に合って発行してもらった。親父さんが広島の日航支店に金を払いに行ったらしい。移民官からチケットを得たら、またここに来なさいと言われたので出頭したらその人はいなかった。中国語も話す四、五名の若者がいた。彼らも入国を試みて成らなかったのだろう。バンクーバーの町を歩いているとき日本人に出会った。アルゼンチン移民だが日本に帰って仕事はあるでしょうかと訊くと、今日本では海外から労働者をいれようとしているところで、どこでも就職できるとの事だったので喜んだ。
YMCAのホテルの掲示板に貼紙があり、新着移住者の座談会を行うので希望者は出席されたいとの事であった。参加してひとつだけ記憶しているのは、自動車整備工場で働いている青年の話で、賃金は一時間8ドルとの事でとても驚いた。そんなに貰っていろのかと羨ましかった。移住前公務員はつぶしが聴かないと聴いていたが本当だ、小生にもなにか技術があったならカナダへでも移住出来ていたかも知れないと思った。いかんせん何もない。今思うにカナダの冬は半年も続きとても寒く、アルゼンチンに来て良かったとも思う。
1972年10月17日羽田に着いて翌日金曜日、新宿ステーションビルで行われた某自動車会社の機関社員採用面接会場へ赴き即時採用と入寮が決まった。安堵した。所持金が少ないので入寮許可は大変助かった。21日から仕事開始、一日提示で7時間半、日当は2800円残業は一時間25%アップの条件である。一日二時間残業はほぼ決まっていた。残業を入れて一日働けば約2983円、当時は1ドル308円であったのでドル換算で9,68ドル、カナダドルは少し安いとしてもカナダの一時間と日本の一日は大体似ている。寮費は月千円ぐらいだったろう。食費は工場寮共に食券を買えばわずかで気にするほどの出費ではなかった。土曜日に休日出勤すれば1日残業扱いとなった。1ヶ月21日就労して5万円くらいになったと思う。月給計算では所得税、社会保険料、健康保険寮等引かれるが、手取り5万円のときもあった。概算で162ドルとなる。これが42年後の今日は一日で稼げる額になっているだろう。隔世の感である。この様な状況が南米の日系社会に浸透して日本への出稼ぎブームになったのだろう。