Jueves, 23 de Abril de 2015
アルゼンチンでの任期を振り返って①  

公邸料理人 末広亮

五月上旬にアルゼンチンを離任することが決まり、皆様へのご挨拶と感謝の気持ちを含め、私自身の経験談や料理人としての生活を 記事にさせていただくことになりました。
月日が経つのはとても早く、つい先日水上大使と着任したようにも思え、短い期間ではありましたが、数々の良い経験を積ませていただきました。
着任当初に限らず、幾度とつまづくことがあり、当たり前の事ではあるのですが、文化や言語の壁を多々感じることがあり、その中でたくさんの方々から支えてもらいながら、一歩ずつ前進してきたつもりです。

公邸料理人の仕事内容はいたってシンプルなもので、大使への食事から夕食会などの様々な会食で、喜んでいただける料理を作ることです。
もちろん日本で調理するのとは勝手が違い、特に食材の入手には私のみならず、世界各国で料理人の方々は苦労されているようです。
海外で喜ばれる料理を作るには、良い食材、経験、技術、体力、言語、人脈だと私は考えており、いくら腕前があっても良い食材が
手に入らなければ良い料理はできませんし、経験や技術がなければ食材を生かせない。状況によっては睡眠時間が取れない時もあり、いかなる状況でもやり遂げないといけないことも多々あります。業務をこなす上で、体力が必要になります。また様々な場面で言語が話せるというのは大きな武器になります。
人脈というと私の仕事をご存知の方からすると不思議に思われるかもしれません。なにせ、厨房には基本的には私一人で調理をします。
ですが、一人でできることというのはたかがしれているもので、いかにいろいろな面でサポートを受けれるかが実は大事なんです。
例えば、日本料理を作るうえで、様々な食材が必要になります。中でも魚介類や野菜ですが、現在、日系の方々のご協力もあり、鮮度の良い魚を魚屋さんを通して、常に入手できるようになりましたし、野菜も常備配達していただけます。公邸には大葉などの野菜も植えていただきました。そうすることによって、買い物に行く手間が省け調理により時間を掛けることができるようになり、より品質のよい料理を提供できるようになりました。
また天皇誕生日レセプションや新年会などの大型レセプションの際は私の料理人の友人たちにサポートをしてもらい、円滑に料理を提供できるようになりました。
私が着任してすぐに、東日本大震災から、一年が経った頃でして、復興支援をサポートしていただいた方々へのレセプションがありました。
その際は、上記のものがひとつも揃ってない状態で行いましたので、私自身も泣く泣く二日感徹夜で仕込みましたが、結果は納得のいかない形でおわりましたが、三年を過ぎた今日、私はどこの大使公邸にも負けない公邸会食を多くの友人に支えてもらいながら行うことができるようにな達成感のある任期になりました。
料理人としての今日までの道のりをよく聞かれます。よく料理の道を選んだことを様々な方から聞かれるのですが、特にこの世界に憧れていたわけでもなく、まさか料理人になるとは考えてもいませんでした。
この世界に入ったのはまだ十代の頃で、高校を辞めてフラフラしていた時期があり、将来への不安や生活を考え、この世界に入りました。最初はなにも考えずにとりあえずお金がもらえる程度しか考えず、本当に成り行きで。いわゆる丁稚奉公から始めたのですが、当時右も左も分からなかった私には新天地でもあり、厳しい世界でありました。不器用な方でしたので、よく板長には叱られましたし、当時はまだ体罰なんて当たり前で、常にどこかにあざがあった時期でして、朝から晩まで働いていました。同じくらいの人たちが、ファッションや恋愛に夢中になっているのがいつも羨ましかったですし、気づけば、人前に出ることがいやになったこともあります。
当時は本当に人一倍叱られました。不器用でしたし、とにかくトロくさかったと思います。その分、人一倍努力をしなければ認めてもらえませんでしたので自然と他の人より勤務時間が長くなっていました。
休憩時間には桂剥きを練習させて頂いたり、先輩のしている仕事を覚えるために自分の仕事をはやく終わらせて手伝わせていただいた日々でした。不器用な私は、先輩達にはよく付き合ってもらったし、よく叱られました。どんな行動も、とにかく早く一人前になりたいという願望からでして、とにかく我武者羅になってやっていました。
では、今の私はどうなのかといいますと、当時と何も変わってないと思いますし、当時のままです。
一人前にはやくなりたい。そう思ってやっていた時期もありましたが、気づけば厨房に立ってはや18年がたちました。環境は変われど、相変わらず厨房に立ち、料理を作っている自分がいます。18年がすぎて一人前になったのかと思えば、まだまだ世間知らずな半人前です。
学ばなければいけないことが山のようにあり、山のようにやりたいことがあります。
上を見れば本当にきりがない世界で新しい目標を探すことに困ることはありません。
公邸料理人になったきっかけは、ロンドンにある日本料理店で勤務させていただいていた時でした。元々、海外に憧れを持っていたこともあり、23歳の時にインターネットで仕事を見つけ、若気の至りでしょうか、当時まだお金もありませんでしたから、泣けだしの5万円をにぎりしめて渡英し、なんとか生活が落ち着いた頃でしょうか。日本料理店と言っても和食をベースにした創作料理が爆発的に流行っていた中、私の勤めていたNOBUというお店はその最先端のような場所でした。渡英して一年ほど経った時に面接をして、働くことになったのですが、勤務して一年ほど経った時に先輩から公邸料理人の仕事を紹介していただきました。公邸料理人の存在は知っていましたし、迷いはなくぜひやらせて欲しいと即答で返事をしました。まだその当時は、数年の間公邸料理人として勤務し、その後またNOBUに戻るという話でして、いい経験になるという程度にしか頭にありませんでした。
いざ公邸料理人になるということで、最初にいただいたお話はロンドン大使館の公使の料理人募集でしたが、急にその公使が日本に帰国しなければいけなくなり、その方から外務省の国際交流サービス協会という公邸料理人を管轄している部署を紹介していただき、最終的に極東ロシアのウラジオストックに勤務することになりました。
ロンドンのような華やかな環境ではなく、環境整備の行き届いてない地域で勤務することになって、最初の頃はとにかく鼻っ柱を折られてばかりでした。それまで使っていた食材というのは、高級食材ばかりでしたし、一歩外に出て、NOBUの料理人といえば相当のステータスでしたが、極東ロシアではだれもそんなことは知りません。ただ日本からきた青年程度でした。食材ももちろんほとんどまともなものが手に入らない環境で、途方にくれるような日々でした。
そんな日々の中、当時の総領事から、色々と励ましていただきました。今でも頭に残っていることは、”出来る、出来ないじゃあないんだ。やるんだ。”今でも鮮明に覚えています。
何もないから出来ないのではなくて、何もなくてもなんとかする。極東ならではのミッションで、頂いた言葉通り、自分なりにやり遂げた勤務でした。色々な食材入手を可能にしていけましたし、最終的には料理番組を持たせていただくことにもなりました。
極東勤務後はNOBUに戻る予定でしたが、公邸料理人という仕事に魅力を感じ、また別の国に行ってみたいと思い、その後、別の大使とクロアチアで勤務することになりました。しかし大使と料理や考え方が全く合わず、最終的には1年半ほどで離任しました。それから一年間ほど、スイスの日本料理店で勤務していたのですが、国際交流サービス協会の方からアルゼンチンに行かないかと声をかけていただきました。クロアチアを途中でやめていることもあり、そういうオファーがあるとは考えてもいなかったので、少し疑問を抱えながら水上大使と東京でお会いさせていただきました。そのまま、あっという間に話が決まり、ご一緒させていただくことになりました。実際のところは、様々な方が私を公邸料理人の舞台に戻してくれた訳で、お陰様でその方々には、一生頭が上がりません。(つづく)