Jueves, 09 de Abril de 2015
投稿]移民のひずみ
Escrito por 上原昌勝   

孔子は晩年になっていまだに自分が未熟な人間であることを嘆いたと言われる。東洋の光とも言われるような人がそういったそうである。人間とは肉体的には早く、十代半ばで成熟し、特に性の欲望は強いものであるが、然しその反面一個の人間としては未成熟で厳しい現実のものごとを見抜き、処理していく能力はまだまだ出来ていないという一種の矛盾さをもつ存在である。この矛盾をテレビなどであおり利用して利益をむさぼることに狂奔しているのが昨今の消費社会である。人間は基本原則として親からそして学校の教師から色々なことを学びとらなければならず、それも高度な教育をこなせばこなすだけ良い生活をしていける存在である。

処で、金儲け一点張りで自分のことしか考え切れなかった移民たちは、まだ学齢期にあった子達を自分の仕事に使い親としての義務を果たしてこなかったという実があり、それは基本的人権への侵害であった。移民先国の言葉や習慣、労働基準法をしらない親達にとってそれは「仕方なかった」と言えばそういうことになるかもしれないが、後年そのためにどれほどの深い心症と障害をもたらし辱めをうけてきたことかを繰り返し申し渡せなければならない。基本的人権とは、その言葉が示す通り少年達にとって不可欠なことであり、教育を否定することは人間を否定することに等しいことであったといわなければならない。その責任は直接には移民の親達にあり、大局的に見れば国の移民行政の総合的視野に欠けた指導の怠慢、都合主義であり、まやかしであった。そしていまだに知らんふりであり、無策である。
この問題を訴え、機能させるためには、もっと多くの仲間達と連絡を取り訴えを社会化し政治化していく行動力が必要なのだと痛感し、昨年ブラジルの邦字新聞に投稿し、移民社会がその非を認め、ねぎらいの言葉を誠意をこめて公表するように願書を出したが(使い捨てにされていい気のするひとはいないのですから、驚いたことにはそこの新聞記者はこんな話は初めて聞くことだというのでした。それでも掲載され、数名の父親たちから詫びにとれるような便りはあったが)そこでよく考えてみると次のような喰い違いの移民社会があるのに気付く。移民の大多数は田舎出の教育もない貧農たちであったが移民社会を指導してきた中央日会や新聞社の方は大学の方とかそれに準じた商社員の方だということ。すなわち彼等は一般の移民とは違ったエリートたちであり、移民を代弁する人たちではないということである。人間とは誰しも自分の側からそのものを見る者であり、それ故異質の他人のことがわからないのであろう。昔から日本人は異なる意見を言う人を排除する傾向が強いものだ。ア国の移民は日系人の多いブラジルとはかなり違い、当時邦人の70%が洗濯屋の仕事であった。洗濯屋の仕事は(特にボクのしてきたアイロンかえの仕事は奥に居る)家にだけいる仕事で、そのため日に日に単純で狭量になり、友もなく話題がせばまり、愛にうえ、学ぶこともなく、ろくでもないことを考え毎日が空しくなる。これほど少年の心を蝕める陰気なものはなかったと今、思いかえすのである。
もう一方では親達の世代は軍国主義時代で、それに役立つように国民が教育されたため偏狭な人たちであった。人権という言葉さえ聞いたこともなかったのであろう。こういった枠の中で僕らの訴えが考えられては判ってもらえないのではという思いもする。誰もが願う本物の幸福、自己実現とは、先ず人造りを優先し努力することで実を結ぶものである。大多数の移民たちはその逆の道を行った。「失敗は成功の元」といわれるが、そのための条件はその元をなした闇をあいまいにせず直視することであろう。そこから明日へのビジョンを見い出し前進することが人生の一つの側面である。
最後に移民の理想とはどういうことか、と考えますとき、僕は移民などない方が一番いいのだと考える。なぜなら意味は貧困の産物であり、貧困は戦争の産物だからです。そして当然のこととして金儲け一点張りの移民社会からは見るべき文化は生まれなかった。

 

ロサリオ市 上原昌勝