Jueves, 06 de Febrero de 2014
比嘉アントニオ・善勇さんに旭日単光章

平成25年秋の叙勲で、比嘉アントニオ・善勇さん(北中城系)が旭日単光章を受章、その勲記、勲章の伝達式が大使公邸で行われた。平成23年には、外務大臣表彰を受章している。
比嘉さんは現在、アルゼンチン唯一の邦字紙、らぷらた報知の社長。
生後6カ月で母や兄と沖縄へ渡り、第二次大戦後の1950年、父の呼寄せによって高校中退で家族とともに帰国した。兄の経営する洗濯店を手伝いながら苦学した。名門のブエノスアイレス大学付属中学を経て、1973年、同大学法学部を卒業、弁護士の資格を取得。

法律事務所を開いたが、折柄、活動が盛んになる日系社会の諸団体の定款作成や改正、法人格取得の手続きを行う機会が増えた。
宗教団体の場合、アルゼンチンには宗教法人というジャンルがないため、民法法人という形で定款を整え、法人格取得、定款の認可手続きを行った。
また、ある字(あざ)同志会の場合、会館購入が先行したため、便宜上代表格3人の個人名義になっていた。それを調整、法人格、定款認可にこぎつけた。
現在の沖縄県人連合会の前身、沖縄連合会は1951年の設立である。第二次大戦後、混沌とした状況の沖縄事情から、混乱し続ける県人社会だったが、その人心統一を図るため、当時の有力団体だった沖縄音楽舞踊協会、戦災救恤委員会沖縄救済会、南郷体育クラブの3団体の連合として組織されたものだった。一世を中心に会員制度をとり、単純な形式の定款だった。
やがて、呼寄せや自由渡航、隣国からの転住という形で始まった戦後移民によって、出身地を中心にした町村人会、同志会が作られ、沖縄県人社会を膨らんだ。また、拡大、強化された市町村人会の勢力争いが繰り返され、旧来の定款では収まらなかった。二世世代が共生する団体としての運営、法的にきっちりした組織が必要とされていた。
1989年の定款改正委員会には、比嘉アントニオさんも法律顧問として参加した。連合会という形だが、ほとんどの団体に法人格がない。そこで定款に連合体制が可能な条項をいれて地盤を整えた。
その後、会員制、連合体制にするかで意見が分裂、沖縄連合大紛争にまで拡大したが、収まった後、一世・二世・三世世代が共生する時期に入ったが、連合体という線が崩れることはない。
沖縄連合大紛争はその解決まで4年かかったが、新理事会、新会館建設委員会が結成され、比嘉さんも顧問として参加した。荒廃した旧会館は市当局から閉鎖され、その再開手続きなどが山積していた。それと並行して、新会館敷地の選定、折衝、売買契約書作成に参加し、工事責任者の一人として、その語学力と法的知識など、大きな役割を果たした。
さらに、これまでの経歴と経験から、沖縄県人移民100年史編纂委員長に任命された。それと並行してブエノスアイレス市自治政府が、建国200周年記念事業の一環として、「Japón en Buenos Aires(ブエノスアイレスにおける日本)」という小冊子刊行に際して、少数民族でありながら一目置かれる、日系コミュニティーの70%を占める沖縄系社会を紹介したが、沖縄の歴史・地理・文化・移民について総括するなど、総責任者として大きな役割を果たした。
そのほか、国立マルデルプラタ大学法学部の要請で、「日本の近代民法のプロセス」を完成させた。これは、歴史と文化を異にした日本とアルゼンチン、社会秩序維持のための規範のちがい、とくに宗教に関して伝統と習慣を重んじる日本とか、あるいは、共通点を示すなど、学術的交流の意義は大きい。
以上、日系社会の世代交代の時期にあたり、比嘉アントニオさんは日本語とスペイン語の双方に通じ、法的知識をよく活かし、定款作成や改正の上でアルゼンチンの法律と適合する形に整えることが出来た。これらのことを、ほとんど無償で行っている。
さらに、日本人一世世代の思考と習慣を詳しく知っている背景があり、日系社会の円滑な運営に大きく貢献したことが評価された。
写真は、水上正史大使夫妻と比嘉アントニオさん夫妻