Viernes, 22 de Marzo de 2013
ブルサコ日本人会主催の

「ブルサコ祭」好天に恵まれ、どっと人出

ブルサコ日本人会主催の第2回「ブルサコ祭り」が去る10日(火)10時より、同会所属の運動場協和園で行われた。
心配された前日の雨もすっかり止み、暑さも取れて絶好のお祭り日和。第一回を大きく上回って、ほぼ4500人の人出があった。
テント内の招待席には、地元市役所、警察関係者と家族、長沼智之領事夫妻、佐藤仁彦文化担当官、武田浩幸JICA所長、米須清文FANA会長、生垣彬・同副会長夫妻、広瀬哲哉・エスコバール花祭り委員長、テレビでお馴染みの大野剛浩シェフ、屋宜宣順沖県連会長、サルミエント、F・バレーラ、エスコバール、メルロの各日本人会会長、または代表、田港朝寿・元ブルサコ日会会長、新里孝徳・沖県連相談役、新里真一・同元会長・ブルサコ日会元会長たちのほか、故石川蔵次郎さんの家族。

12時から、琉球国祭り太鼓グループによる、エイサー(沖縄の盆踊り)ではじまる。つづいて、櫓(やぐら)の前に置かれた大きな張子の「だるま」に目入れ式を行い、黒く片目を入れる。日本の慣わしで、だるまは縁起物(えんぎもの)としてはじめは右の目玉を黒く塗り、念願がかなったとき残りの左目に黒目を入れる。
さらに、ブルサコを中心にした日本人集団地域の先駆者、故石川蔵次郎さんの入植100周年表敬行事があり、その長男昌夫さんの謝辞があった。(別掲)
あと、ブルサコの若手男女の歌い手たちが、いずれも和服でカラオケ。その頃になると観衆の数もぐっと増える。会場をコの字型に囲んで53のスタンドが並び、さらに主催者側のうどん、やきとり、チョリパン、鉢物、野菜類のスタンド、地元の自動車販売代理店を加えると60店近く、食欲、購買欲を誘っていた。
ところが、これだけのスタンドが揃うと電圧低下の状態となり、マイクの使用不能となり、プログラムの進行も一時中断。
やがて、ブエノスアイレス組み太鼓グループの実演、参加できる盆踊りの「河内男節」などが始まり、大勢が加わって楽しむ。さらに、琉球国祭り太鼓のエイサーにも観衆が誘い出される。
リーファの抽選が歓声の中で行われ、お祭りがほぼ終了したことから、目的達成で「だるま」の左目が黒く塗られ、大勢が盆踊りに加わって締めくくられた。 
真昼間の夏祭りである。盆踊りは普通夜だから、祭りの情緒は薄くなるが、緑の木立の中でたくさんのカラフルな提灯(ちょうちん)が青空に映え、あっけらかんとした開放感があった。(写真)
非日系の数も多いが、いつもと逆に、日系二世の高齢者、三世、四世の若者、こどもが多く、祭りに、日本風みやげ物に、踊りに参加して満足しているのが目立った。
ある初老の二世は、本紙スペイン語版1月17日号に掲載された、ボカ、バラッカス地域の初期日本人の長屋生活、アルパルガタ工場労働について、「おじいさんが話してくれたことと、いろいろ内容が一致していて、非常に懐かしかった」、と話しかけてきた。
80歳になるある二世は、この祭りの最後に「『蛍の光』を歌いましょう」と、少し興奮気味に話していた。昔、日本語学校に通っていた頃を思い出したに違いない。
年配の二世だけでなく、踊りに参加した3人のムチャチョたちが、異常なくらい踊りにこだわり、誇らしさ、アイデンティティーみたいなものを捉えようと、手を伸ばしている感じだった。
それと、一番人気があったのは、大野シェフ。日系人、非日系人がひっきりなしに近づき、一緒に記念写真に入ってもらっていたが、一人ひとりに親切に応じていた。

石川倉次郎さんの入植100周年
ブルサコ祭りの中で、この地域の先駆者、故石川倉次郎さんの入植100周年を迎えたことから、表敬行事が行われ、石川さんの子どもたちも招待されて出席した。
次は、長男の昌夫さんの謝辞(原文スペイン語)である。
「父の入植100周年に対する表敬、心から感謝致します。想像できると思いますが、当時はすべてカンポと土道で、いちばん近いアスファルトの鋪道はアドロゲーにありました。
当時の日本人社会は非常に小さなものでしたが、それにも拘らず、父は同胞の何人かと一緒にみなの支援を受けて、今日の日本人会の前身となる組合を作りました。
現在、私たちを代表する模範的な組織となって、祖先の文化を広める日本語学園、武道、太鼓、日本料理、その他を普及させるとともに、アルゼンチン人たちが非常に熱中し、敬意を表している。
これは、非常に元気付けるものであり、しっかりした足取りで企画を実現していく日本人会にとって、約束された将来があると思います。皆様の幸せを祈るとともに、喜びと安らか、希望にみちた一日を過ごしましょう。
最後に、熱狂的なフットボールのファンみたいな言い方をすると、゛アルゼンチンと日本、心は一つ〟です。有難うございました」
石川倉次郎さんは1913年、4人の共営で最初アドロゲーに15㌶を借地して野菜作りを始めた。その後共営を解き、1921年、ブルサコ駅近くに5㌶の土地を購入、土地所有農となった。当時として、出稼ぎで金儲けをして故郷へ錦を飾る気持ちの多い人たちの中で、土地購入は先駆的だった。
やがて日本人蔬菜業者が増加し、日系子弟が増えるとともに、日本人蔬菜園芸組合の支援で1934年に日本語学校が設立された。1937年になると学校の経営は組合から離れ、維持会の手に移った。
その後、石川園は場所を変えたが、協和園の西隣にある広い土地がそれで、盆踊りをした広い部分もそれに属し、ブルサコ日本人会に貸与したものである。写真は石川さん兄妹弟、嫁、嫁の母、仲間日本人会会長、兼次副会長