Viernes, 05 de Octubre de 2012
コスキンの水溜侃(すなお)さん、急逝

全国紙クラリン紙の9月27日号が、コスキン在の水溜侃さん急逝の訃報を写真入で取り扱っていた。「コスキンにおける民間大使で、コスキンの全国フォルクローレ祭を日本へ輸出し、(福島県)川俣市にフォルクローレ祭を誕生させ、両者の絆を強化した。近隣の人達から尊敬される市(まち)の典型的な人物だった」、と高く評価していた。
水溜さんは鹿児島県川辺郡坊津出身。玉川学園久志高在学中、兄正男さんの呼寄せで来亜している。

本紙記者にとって、ひと月前の8月26日の鹿児島県人会創立100周年記念式典の折、久しぶりに会い「だんだん仲間が消えていって淋しくなったね」、という話を交わしたばかりだった。訃報のあと話を聞くと、心臓の調子が悪かったとか。
彼は1960年まで沖縄県人の洗濯店に住み込みで働き、コスキンに転住、洗濯店を購入しているので、同地に50年余住みついていることになる。
ブエノスアイレス時代、西部クラブで野球をしていた。ところが、やはり熱心にやっていた柔道で肩を脱臼、それが慢性になって苦労していた。

前列左端が水溜さん
クラリン紙が紹介したように、コスキンの全国フォルクローレ祭とのつながりでは目立ったが、そのほかコールドバ日本人会会長を何期か務めている。そのほか、今ではすっかり忘れられた点で貢献している。
高原地帯のコスキンは湿気が少なく、昔、肺病・結核患者の、保養地・療養地として知られていた。在亜日本人会所属の肺病療養所もあった関係で、日本人が入院し、あるいは住みついた例は多く、亡くなった人たちも少なくなかった。
ところが、やがて廃れたコスキンの墓地を市役所が整理・処分することになり、親類、縁者が遺骨を掘り起こして引き取ることになるが、我関せずと無視する人たちもいた。その間、各地に散らばっている親戚、在日本の縁者との連絡、無縁仏の取り扱いまで含めて、水溜さんがいろいろ世話をしていた。
2005年、旭日双光章を受章している。
好漢惜しむべしというところ。遠くご冥福を祈りたい。

(崎)