Viernes, 10 de Agosto de 2012
「マルビーナス戦争30周年を振り返って、 4月2日と6月14日を考える」(中)
Escrito por アルベルト松本(俊二)    

あの74日間はまぎれもなく戦争だった

このマルビーナス戦争に対して、歴史的、政治的、外交的視点については当然両国間では多くの相違点があるが、軍事的な分析については案外互いに戦場での功績を認め合っているのが大きな特徴である。
海外メディアは、あの出来事を「フォークランド紛争」として紹介するのだが、短期決戦とはいえあれはまぎれもなく戦争であったと理解すべきである。だから、今も2000人以上のイギリス兵が常時駐留しており、地対空ミサイル基地は島のあらゆるところにあり、早期警戒システム、戦闘機、フリゲート艦、原子力潜水艦等を配備している。
当時、イギリスと戦うことを我が軍も当然想定しておらず、そうした装備も訓練もしていなかったのは確かである(兵役では、仮想敵国はチリとブラジルであった)。4月2日の上陸から一週間後にサッチャー首相が、英海軍及びその機動部隊を派遣したことは想定外だったが、アメリカまでもが衛星写真等を提供したことによって、我が軍は世界最大の軍隊との戦争になってしまったのである。当初は我が国の方が有利だったのだが、制空権、制海権を失ってからは非常に困難になり、イギリス軍上陸後の戦闘は「ろう城」に近い状態が幾つもあったと言える。プエルト・アルヘンティーノが陥落したのも最終的には前線部隊を援護することもできず、武器弾薬、食糧の輸送がほとんど不可能になったからである。

それでも、海軍と空軍は当時の最新武器を使用し、代表的なのが海軍飛行隊のエクソセーミサイル、地対空移動式ミサイル「ローランド」などであった。英軍も複数の艦船を撃沈されあれだけ大きなダメージを受けたのは第二次世界大戦以来だったと認めている。その被害状況は今も機密扱いになっており、90年間非公開である。地上戦も凄まじいものであり、彼たちの上陸後の戦死者・負傷者の数は公式の倍を上回っているという見解も、英軍将校からある。確かに我々より訓練を受け、防寒服も武器も最新型だったが、あの地理的・気候的条件では攻める方からみると非常にやっかいな戦いだったに違いない。イギリスの司令官も、あれは「ピクニックではなかった」と断言しており、幾つかの丘での戦闘では銃剣を使用した一対一の戦いだったのである。
様々な資料と証言によると、確かに我が軍の統制には不備が多く、装備も兵站も不十分で、陣地間の連絡体制も良くなかったのだが、それでも限られた装備と訓練しか受けていなかった兵士たちは英軍の想像を絶する戦いぶりをみせたと言える。
これまで指摘されてきた通り、我が軍の海兵隊や一部の部隊以外はあの気候にはまったく適応しないアルゼンチン北部のチャコ州、ミシオネス州、コリエンテス州の連隊が派遣された(合理的な理由はなく、将軍たちの駆け引きと無能さによる結果だと解釈されている)。5月末に気温が急激に低下し、6月に入ってからは一部の丘では雪も降るようになったのだが(南極の風で体感気温はマイナス10~20度になることもあった)、夜間の攻撃や艦砲射撃への対応はかなりしんどいものであった。
実戦ではマニュアルで定められているようにはいかないのだが、古い武器で使用期限が過ぎている銃弾でも、相手に当たればその殺傷効果は同じである。
6月14日の正午ぐらいに停戦命令が下り、不思議な静けさに包まれた。我が小隊も援軍として移動中だったが、すべての作戦が中止になり、命令に沿って暴発を避けるため武器の撃針を外した。そして、次の日敵軍に武器を納め、捕虜として収容された。一日目は空港敷地内の仮キャップでテントで過ごし、二日目からは街の倉庫に収容されたのだが、ここには我が軍によって配布されていなかった何千、何万という食糧の箱があったのでそれをみんなで食べ、英軍からは温かいスープが提供されたことを覚えている。
そして4日目に、病院船になっていたBahía Paraíso号に乗せられ、国に戻ったのである。

 

マルビーナス戦争の戦後とは
良い結果を出せなかった戦争となるといかなる国でも後味の悪いもので、政治的及び軍事的な戦争責任と、現場での不備と失態をどのように追求するかその後始末に苦慮する。
我が国の場合ガルティエリ大統領が辞任し、その一年後には6年間の軍事政権は幕を閉じ民主主義が回復した。それだけでも、649名の命は救われたに違いないのだが、その犠牲の重さについて政治家や指導的な役割を果たす者たちがどれだけそれを理解しているのか近年の動向を見る限り疑問に思えてならない。
いずれにしても、軍事的な責任については、1982年末にラテンバッチ陸軍大将によるマルビーナス戦争調査委員会の調査報告が軍部上層部に提出された。これには、ガルティエリ大統領を軍事法廷にかけ銃殺刑に処すべきであるという結論まで出したため、委員会はすぐに解散になり、報告書も非公開扱いになった。つい最近、クリスティーナ・フェルナンデス大統領がこれを正式に公開し、当時の軍の「不始末」を改めて強調したのである。
この30年間は、帰還兵に対する恩給や医療保障、雇用等については徐々にだが、それなりに充実したと言える。しかし、名誉回復については十分とは言いがたい。国民レベルでは多分多くの人は我々の功績を認めているようだが、しかしその歴史的・政治的背景があまりにも複雑であるがため、我々をどう位置づけるかについてはまだ時間がかかるに違いない。また、現政権のように「軍人=悪」という偏ったイデオロギーである以上、もう少し客観的な歴史検証することさえ不可能に近い。我がアルゼンチンの場合、ペロン後どの軍事政権にも多くの政治家や労組幹部、カトリック教会や業界団体、そして国民の黙認そのものが関わっており、単純に軍事政権にすべての責任を押し付けることはできない。人権侵害問題については、世界には類のないほど多くの関係者を裁き、処罰してきたのだが、近年当時下級将校だったものまでがその対象になっており、昇進前もしくは退官前に十分かつ明確な証拠もないまま、単なる間接的な証言のみによって告発され、拘束されている将校も多数いる(中には、この戦争の帰還兵もいる)。また、そうした政治パフォマンスに加担する検事や判事がいることも情けないのだが、三権分立が泣くぐらい今のアルゼンチンは議会も、司法府も、行政監察機関も、大統領府の強い圧力に屈しているのである。(つづく)