Jueves, 24 de Septiembre de 2015
ささやかな第一歩  
Escrito por 石田智恵   

大学院の博士課程1年目だった2009年以来、毎年のように日本からアルゼンチン(ブエノスアイレスとその郊外地域)に通い、日系社会についてインタビューや資料収集などの調査研究を続けてきた。昨年は初めて半年間という長めの滞在期間をとって、この2月に帰国した。この最後の滞在中に、私もそれまでに深く御恩を受けた崎原朝一さんと高木一臣さんのお二人が亡くなり、もたもたしていては恩返しが間に合わなくなることを思い知らされた。そんな経緯もあって、今回『らぷらた報知』の編集の方から寄稿のお誘いを受けたとき、この場を借りてお礼を言いたいということがまっさきに頭に浮かんだ。少し前置きが長くなるが、以下、私が(大)ブエノスアイレスで調査をしてきた7年の間にいろんな人に会い、いろんな話を聞いてきたなかでも特に印象に残っている2つの場面を紹介し、感謝の意を表したいとおもう。

昨年2月のある日、らぷらた報知社に過去の新聞記事を閲覧しに行った。若い記者の一人が「また来たの」と笑いながら、今回は何を調べているのかと尋ねるので、探している記事の内容を伝えた。すると彼は小さくため息をついて、仕事の手を休めることなくこう言った。「どうしていつもそうやって争いごと(pelea)や問題(problema)ばかり知りたがるんだ。日系社会にはもっと良いこともいっぱいあるだろう。良い話は嫌いなの?」。私は即座にうまく答えられず、なんとなくはぐらかしてしまった。
「今の日系社会をつくった出来事だから」。今ならこう答えられたかもしれない。この時私が調べていたのは、1980年代後半に日系社会を騒がせた(そして一部の日本メディア及びブラジル邦字紙にも報じられた)「日本人移民百年祭」をめぐる不破・対立事件だ。この件をご存知ない方は、FANAの『アルゼンチン日本人移民史 第二巻・戦後編』の「百年祭紛争」の項目を参照されたい(さらに詳しく知りたい方には、1984年~87年ごろの『らぷらた報知』にあたることをお勧めする)。確かに彼の言う通り、私がメインに調べてきたことは「問題」や「紛争」とされる出来事だった。しかしだからといって、他人のケンカをおもしろがっているというわけではもちろんない。ではどうして争いについて知りたいのかというと、日系社会をもっと深く理解したいから、というしかない。
日系コミュニティがアルゼンチン社会に対して誇れることや、誰もが自慢できることは、調査をしていればすぐに知れる。いっぽう、スキャンダラスな出来事や悪評が身内に及ぶような問題を進んで話してくれる人はそう多くない。特に私のような1年に1度しか来ない、来ても1ヶ月ほどしかいないよそ者にデリケートな話などしないのが当然だ。でもきっとそういう話こそ、日系社会を知るにはこの上なく大事なことのはずだ。大事なこと、譲れないことでなければ、対立が起こるはずがない。ケンカをするというのは楽なことではないからだ。組織的対立に身を投じることは、おおかた面倒で後味も悪くて、下手をすればたくさんの労力と時間を(しばしば人望とお金も)失いかねない。単なる個人的な好みや相性だけのケンカが、人が口を閉ざすほどの大問題になるだろうか。個人的な好き嫌いにみえても、深刻にならざるを得ない背景があるからこそ、そこに譲れないものがあるからこそ、コミュニティ全体に及ぶほどの「紛争」になったのではないか。30年前、渦中にいた人たちがその紛争を避けられなかったのはなぜなのか。その紛争にはコミュニティの本質が何らかのかたちで現れているのではないか。その出来事を理解することなく今の日系社会を理解することはできない。「百年祭紛争」を研究対象にしたのは、最初は漠然としたものだったが、こういう直観からだった。その直観は今も間違っていなかったと思うし、だからこそ博士論文の中の1つの章として取り上げた。あの時、らぷらた報知社で「どうして」と尋ねられていなかったら、直観を明確な説明につなげようとするのがもっと遅れていただろう。研究の重要性を説明するという課題に気付かせてくれたあのときの記者の問いかけをありがたく思いながら、同時に、その場できちんと答えられなかったことを後悔している。
もう一つ、さきほどの話といつも一緒に思い出す忘れられないことばがある。
2010年だったと思うが、ホセ・C・パスのサルミエント日本人会のバザーを訪れたとき、日本人会の役員の方が、ある二世の女性(当時90歳)を紹介してくれた。日系社会の歴史について調べていると話すと、そのおばあさんは私の手を握り、まっすぐ私の目を見て、深みのあるしっかりとした素敵な声でゆっくりこう言った。
「良いことばっかりじゃなくて、悪いこともちゃんと書かきゃだめよ。良いことしかないなんて嘘だから。あとでいろんなことを言う人がいるだろうけど、あなたはそんなこと気にしなくていいの」
まるで私のために前もって用意されていたかのように、よどみなく迷いなく、そして強いけれども優しいこの言葉は、まっすぐ響いて私の迷いを吹き飛ばしてくれた。アルゼンチンで生まれ、教育のため戦前に日本に送られそこで戦争を生き抜き、アルゼンチンに戻って20世紀後半を過ごしてきたというその90年のあいだに、どれほどいろんな出来事があっただろうか。「悪いこと」も数えきれないほど見聞きし経験してきただろう。その彼女がこんなに迷いなく言うのだから間違いない。人が話さないこと、聞きたがらないことをなかったことにするなんて嘘だ。歴史を書くなら、覚悟せよ。そう背中を押してもらった。
「紛争」と呼ばれる過去の出来事を「ただのケンカ」とみるか、それとも、コミュニティの命運を分けた重要な「歴史の一場面」とみるかは、後の世代の人間にゆだねられている。
いま私は、「百年祭紛争」と同じく語ることを避けられてきたもうひとつの「問題」として、最後の軍事政権「プロセソ」の国家暴力の犠牲となった「失踪者」に含まれる日本人/日系人について調べている。この問題は、「百年祭紛争」がそうであるように、日系社会とアルゼンチン社会がどんなふうに切り結ばれているのかを示してくれると考えている。上に紹介した忘れられない2つのことばは、決して扱いやすいとは言えないテーマを追究する今も、時折私を叱咤し励ましてくれている。
上記の2人だけでなく、日系人、日本人、アルゼンチン人を問わず、これまでのすべての人びととの出会いや会話に、私と私の研究は支えられてきた。冒頭に書いた通り、最初の滞在から数えて足かけ7年、日亜往復も7回を数えた。そのあいだに本当にたくさんの方に、言葉にできないぐらいお世話になった。最後になったがこの場を借りて、改めてお礼を言いたい。おかげで2013年に博士論文を提出し博士号を取得した。すべての方々に報告できていないことを申し訳なく思いつつ、ささやかな恩返しの第一歩として、博士論文のコピーを沖連とCeUANの図書室に1部ずつ置かせてもらった。他の日系団体にも今後お願いして置いてもらおうと思っている。決して読みやすいものではないが、いつか誰かが興味をもって手にとってもらえたら嬉しい。あいにく博士論文は日本語なので、次の目標はこれをスペイン語に翻訳してアルゼンチンで出版すること(実現にはまだ少し時間がかかりそうだが・・・)。AJA、FANA、沖連、教練、セントロニッケイ、CeUAN、日亜学院各地の日本人会と日本語学校(ブルサコ、サルミエント、エスコバール、西部、フロレンシオ・バレーラ)の関係者の方々、その他にも、インタビューを受けてくれた方、資料を提供してくれた方、自宅に泊めてくれた方、食事や飲みに誘ってくれた方、困ったときに手を差し伸べてくれた方……。ひとりひとりお名前を挙げることはできませんが、みなさんのご厚意、友情のおかげでここまで研究を続けることができました。本当にありがとうございます。そして、これからもアルゼンチンの研究は続けていきますので、どうか末永くよろしくお願いいたします。